⇒顕彰会会報寄稿
 寄稿
 
 巨峰菅茶山に懐う
       福山大学理事長 鈴木 省三

 菅茶山生誕270年記念記念祭おめでとうございます。光栄にもご招待に預かりながら、公務のため出席できませんでした。この紙面を借りて、改めてお祝詞を述べさせていただきます。と同時に、今夏の西日本豪雨被害についても衷心よりお見舞い申し上げます。
貴顕彰会の拠点、国特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」の被害は軽微にとどまったと知り安堵しております。

 さて、神辺城時代から時移り備後国福山城下、神辺宿の頃、存世の菅茶山53歳の漢詩「神邊驛」は一見ありふれた宿場の叙景のように思いますが、「空濠荒驛半榛荊」中、「荒驛」は何を語ろうとしたのでしょうか。
茶山は当時の神辺宿について、①かんなべ(燗鍋)で酒のむ人ハ多けれど、本読む人はちろり(銚釐)ともなし。②ことの外悪風俗の處、村役でも、呑む・博つ・買うの日常。自らも例外ではなかったと告白しています。

 こうした状況下、一揆が頻発する末世的な現実に危機感を募らせた茶山は19歳の時、一念発起して京坂に遊学六回、取っつきにくい外貌に似合わず、人好みをしないバランス感覚の取れた為人に加え「当代随一の漢詩人」評の追い風を得、居宅・旅先、そこかしこ面談を求める人たちとの交遊を重ねる中、更に自らを磨き上げ、やがて、ふるさと神辺の荒廃を憂い「学種」による社会秩序の回復を企図、先ずは、刎頸の友、西山拙齋、賴春風らと側面的に「寛政異学の禁」を支援し、その成立を待って、ふるさとに「朱子学」を唱導する私塾「黄葉夕陽村舎」を開設、永続のため藩に郷校化を申請、寛政9年に認可された。爾来、明治維新の学制改革に至るまで、多くの学種を全国に送り出しました。
その巨樹下、幾星霜、教育面で蹊を成すのが、備後では、窪田次郎、山本瀧之助、葛原しげる、福原麟太郎諸氏であろうと思います。

 昭和50年、縁あって、私は、草創期の福山大学、今は亡き名誉総長宮地茂氏の許で、働くことになりました。当時の理事長・学長宮地先生は広島高師を経て旧文部官僚、学閥・「島の者」との陰口に耐え抜き、戦後の学制改革や大学紛争解決に尽瘁、退官後「郷土に大学を」という公約を掲げ出馬した衆院選で苦杯、耳順にして一私人として立志、故郷因島を指呼の間に望む現在地に福山大学を創建しました。
学長建学の理念は「学者や高級官僚などエリート養成を目指す大学」は端から念頭になく、人格陶冶を第一に「知識を蓄え鵜呑みにするだけでは意味がない。
自分の考えを磨いて、疑問を持ち、それを解決して行く」実学主義を主眼としたNO1ではなくONLY1、時代と地方の要請に応えうる学府を唱導。更に、平成5年には福山平成大学を開設。国家・郷土の教育に粉骨砕身され、平成17年5月19日、91歳で帰幽されました。

現在までに両大学合せて約四万二千人の卒業生・修了生の有為な人材を輩出しております。

 菅茶山を懐うたび、私は茶山の下、蹊を成す教育者に宮地茂名誉総長の名を刻みたいと思います。折から、地方の時代、その傘下にある高等教育機関の一翼を担う責務の重大さに身の引き締まる思いを抱きながら、江戸文政期の巨峰茶山に学び、地域に密着した実学を目指し、いみじくも、父が私の名に託した教訓を胸に揺るぎない前進を重ねたいものです。

  吾日三省吾身 (論語 学而第一 四)
 為人謀而忠可乎     人の為に謀りて忠ならざるか
 與朋友交信而不信乎  朋友と交わりて信ならざるか
 傳不習乎          習わざるを伝うるか

 結びに当たって、菅茶山顕彰会の益々の弥栄とご発展を衷心よりお祈り申し上げます。
                                      (学校法人福山大学理事長)